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教員のフィトリは学校で酷いいじめを受けているジャヤを助けようと校長に訴えるが、加害者グループが村長やウスタズなど有力者の息子であるため、見て見ぬふりをされる。父親が直談判に来ても、ゴミ拾いの仕事を嘲笑うだけで相手にしない。再度訴えようと校長室を訪ねるフィトリだが、そこで誰かに殺されたらしい校長の遺体を見つける。しかし警察が来る間に死体は消え、翌日には校長はいつも通りに出勤していた。確かに死んでいたといっても聞いてくれる者はなく、一方でジャヤへのいじめは助ける方法のないままエスカレートしていく。
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ギナンティ監督新作。ギナンティ監督は大好きなんですがQorinは前作の方が良かったです。冒頭の笛?のようなものを咥え弾きながら呪術を使うドゥクンの姿は迫力あってすごく良かったんだけど。
Qorinというのは人間が生まれた時から死ぬまで共にあるジン/精霊のことで、イスラム教では堕落を唆す存在として描かれている。ジャワ文化ではそれをベースにしつつも神秘的な存在、怪異としての解釈もされている様子。今作では殺した相手のQorinを呪術によって支配し、ゾンビ化させるという形で使われていた。生前よくやっていたことを繰り返すばかりであまり複雑なことはできない。ドゥクンが死体を操るネクロマンサーの役割になる。
この設定自体は面白かった!ネクロマンサー的な黒魔術って見たことあったかな…あったような気がしなくもないがメジャーではない。ポチョンがぴょんぴょんするのとは違うからね。操られてる死体だから。ポチョンか、黒魔術の材料になる死体というのが多いので死体そのものを操るのは新鮮でした。
このネクロマンサーがジャヤのお父さんで、ジャヤのいじめに加担した人間を全員殺してはゾンビ化していくけれど、フィトリと弟のリジャイによって呪術が破られ、結局蛮行が発覚した父親は村人からリンチされて死んでしまう。この流れ自体は社会批判なんだと思うんですよ。どれだけ理不尽なことが行われていても権力と金がなければ正義は叶わず、被害者が更に追い詰められて終わる、インドネシアでよく聞く話だから。(無論日本でも同様なのだけどインドネシア映画なのでインドネシア社会の話をします)たまにSNSの力等で金持ちバカぼんぼんの犯罪行為がきちんと裁かれることがあり、ローカルニュースになったりバイラルになったりしてるけど、なぜバイラルになるかといえばそれが滅多にない事だからなんだと思う。たいていの場合はもみ消せる。それが権力があるということだから。この辺の話はKEADILANでもテーマになってましたね。まだ見てないけどOZORAもそう。凄惨ないじめを描写しながら、被害者が更なるリンチで死ぬのはそういう現実を映しているのだと思う。でも、それをテーマにするなら構造批判を入れないと批判として成立しないと思うんですよ。Qorin2で最後フィトリはジャヤを逃がすけれど、数年後の描写として、積極的にではないにしろいじめに加担していた弟リジャイは無事に高校を卒業して資格を得て喜び、戻ってきたジャヤは父親と同じ呪術を使って父親を蘇らせ復讐をたくらむ…という描写で終わる。ホラー映画としてはきれいにまとまってるけど、これじゃ結局同じことの繰り返しじゃないですか。誰も力のない被害者を救わない、そのことをこの物語の最後に見せてはだめなんだよ。なぜならこれはいじめについての物語だから。現在進行形でいじめられているこどもたちに送るメッセージとしては最悪だから。たったひとり自分を愛する人を失って、全ての権利を無視されて、人を殺すしか選択肢がなくなるというラストにするんだったらもう最初からジャヤ自身が加害者を呪いまくっていた方がましだったと思う。
前作のQorinはその「誰と/何と戦うべきなのか」「私たちを追い詰めるものは何なのか」というところに焦点があたっていたのですごくよかったんだけどな。




